形而上の位相空間
大事なことは、いつだって考えることそのものである。
わりと重要な気づきだったようで、なぜ”位相空間”なのかがわかった。
そこを理解しないまま、残骸やケツっぺたをはい回っていたってしょうがない。
それは”実数が抽象的にしか捉えられないから”だ。
つまり、実数を本当に実数だと数学が認めるためには抽象化は”誰であれ”必然だったのである。
もちろん、数学の館に住む住人はそれに成功する者を欲していた。
それは自らの住居であり、足場であるからだ。
そして、これは逆説的だが抽象的なものに終始してるわけにはいかんのだ。
落しどころとしての数学的実体は、むしろたしかなものでなければならないハズ。
その検証を自分はしとらんが。。(もちろん、せにゃならん理由も一切ない。)
開集合とは、結局、一旦集合という概念を取っ払った抽象化なのだ。
そりゃそうだよな。 集合にこだわっていては埒が明かない。
位相空間では、”仕方ないから”(有限)コンパクト性という閉集合のモナドだけを実体としたのだ。
(実数直線上は、点が連続しとるので位相空間では連結性のモナドもあるが、つぶつぶの話はよそう。)
神学というか哲学的にはロゴスとかいうんだっけ?
性質(モナド)が真に数学的実体ならば、それは数学として扱えるのは当たり前ではないか!
言うは易しだが、これは本当に形而上に住む、あるいは触れることが出来る者だけに為せる技だった。
地上のボンクラ共が矢折れ刀尽きて犬死するのは当たり前。
そして、それこそが20世紀の数学者の”心”を良くも悪くも捉えた原因に違いないのだ。
誰も理解していないとも言われている”量子力学”の舞台、ヒルベルト空間もそうして建設された。
これが来たるディクロニウス文明の第十二章であることを、私も地球人類も知る由もないのであった。
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