合気柔術神道
『いま、この地球に存在しているのは、時の流れの中に閉じ込められてしまった秘密のようなもので、感情と関係があります。
この感情という贈り物には富と豊かさが満ち満ちています。
そこには、さまざまな現実を超越して、さまざまな意識の状態を通り抜け体験するという信じられないような能力が秘められています。
感情によってある種のエネルギーは自己実現し、合体し、融合し、結びつき、一体となることができます。
感情がなければそうした結びつきは不可能です。
この宇宙には、古代といわれる時代から存在していて、地球がどのような場所かを理解するに至った人々がおります。
彼らは、われわれのシステムにとって長老とでもいうべき存在で、深く尊敬されております。
彼らこそは、船長が船を操縦するように、さまざまな動きを作り出し、システムを動かしている存在です。
彼らはこの宇宙を軌道に沿って動かしている存在です。 それが彼らの仕事です。
あなた方にもそれぞれ仕事があるように、彼らの仕事は発見の軌道に沿って宇宙を動かすことです。
彼らは自ら学び、旅を続ける中で、他の宇宙と結合しなければならないことを発見しました。』
合気道の開祖、植芝盛平が熱心な信者の一人として開祖(聖師)出口王仁三郎の側近であったからだ。
ちな、日月神示を記した岡本天明なども信者のひとりですが。 なるほど大本ですな。
植芝盛平の存在、技には人知を超えた神との一体感のようなものが感ぜられる。
これが他の武道ならびに武道家とは一線を画すものなんだろうが。
悪いが、弟子たちとは全くの別物と言っていい。
(塩田剛三など一部の例外はあるが、結局弟子になるにせよ武道において自律性は必要なのだろう。)
間合いの感覚ってのは、実戦でこそ身につくからね。 それをはなっからなくすのはダメだと思われ。
盛平オウってのは、翁ってことで名をなしたような老人の尊称だが。 ケルビン翁とかね。
要は、もう神仏に近いみたいな扱いなわけだね。
ここまで胡散臭くない宗教も珍しい。
だから広く一般に受け入れられるわけだね。 流行ることも廃れることもなく。(弾圧は受けた。)
ちな、小津安二郎の映画のような素朴で野太い芸術性も強く感じるね。
丹波哲郎なんか懐かしいなw
著作権も切れてるようで、ここで誰でも読めますね。
さて、植芝守平翁には出口王仁三郎以前に多大な影響を与えた武田惣角なる剣人がいる。
これも時代背景が関係しているが、昔ほど武道は刀とか武器術だったわけだね。
それだけ情報網といったインフラなどもない、物騒な時代だったとも言える。
袴というのも、あれは膝の動きを相手に読まれないようにとのことらしいね。
伝統文化というものも、元をたどればそんな命懸けの背景があったりするもんだ。
人を斬ることに特化した刀ではあまりに物騒ということで刀狩りが行われたりで、棒に代わっていった。
すると、その棒を捌き、掴んでどうにかするという技術体系も派生していったのではないだろうか。
空手キッドという映画で、老人がさせるトレーニングに掃除とか家事労働があるんだが。
それで強くなるんだから、空手とかやめて掃除すりゃあいいんじゃんてなもんだがw
それは大いに一理あるのだ。 理想的な体形って部位の鍛錬によるとかじゃなく働き者のそれだからね。
トレーニングしてる者の体なんて、そのほとんどがむしろどこか貧相に感じるね。
実際、拭き掃除とかすると普段はサマにならないサバキのブレがなくなるのは経験している。
開墾っつうのは、なまじお遊びのどんなトレーニングにも勝るだろうと思うよ。
実際、若き日の植芝盛平にもそういう目的意識があったわけだ。 ちな僕無理です。( ̄ー ̄;)
旧街道を取り上げたとき、金のない明治政府が東本願寺に命じて本願寺街道を作った話を思い出した。
開拓政策ってのは、士農工商みたいな身分制度も廃止されたから、その失業対策でもあったらしいね。
拓殖大学とかの拓殖なんてのは、開拓してそこに人を殖えるってな意味だからね。
日本帝国時代の思想の名残なんだね。 歴史がわかってくると、また見る目は違ってくる。