柔らの拳
『信じようと信じまいと、現在、あなた方が理解しているような人生に別れを告げる時代が来ます。
というより、来る可能性があるといったほうがいいでしょう。
文字通り、あなたが所有している家を、ほんのわずかばかりの荷物をもって出ていくかもしれません。
現時点では、とてもありそうなことには思えないでしょう。
あなた方の中には、この人生において、文字通り自分の家の敷居に立って、家の中を覗いて、その中にあるものはすべてが何の意味もないという現実に直面するでしょう。
なぜならば、もっとも大切なのは魂にかかわるものであり、あなたの命であるからです。
あなたがこれからなろうとするものに照らしてみれば、物質的な所有物やコレクションには何の意味もありません。
あなたをそのような行動に駆り立てるのに必要な出来事を想像出来ますか?
小さな出来事ではとても無理であることが分かるはずです。』
本来、柔道というのは柔らの道であって剛の道ではない。
剛の道歩んでる者多いのぉ~。
太極拳に見られる、あの戦いとは無関係かとも思える一連の捌きには柔らの精神が宿っているようだ。
中国には内家拳(柔拳)という、緩慢な動作の拳法がある。
実践的にはスピードこそ命と思える拳法類だが、緩慢な動きをそのポリシーとし得るのであろうか?
師匠が高齢だったから、模写してたらジジィの動きになってもーた、てなオチじゃないのかね?
ゆっくりと緩慢に蹴れたのは、ジャイアント馬場こと馬場正平だけでしたからな。( °Д°)クワッ
バッティングの極意にもバットに載せて運ぶという表現がある。 ハードヒットではないのだ。
近年、スロトレなる名称でゆっくり動くことのハードさが見直されたり、実感しておるであろう。
歌も、ゆっくり歌う方がよほど難しいとは、よく言われることだ。
普通、真横に腕を伸ばすということは、打撃系の実践的にはまずないことだ。
にも拘わらず、よく出てくるのはなぜなんだ?
実践とは別に、体操、ストレッチという意味では、普段伸ばすことのないところが伸びて気持ちいい。
足で言う、もも裏を伸ばすというのと同じだが、腕ってあんまり注目されてないな~。
肩から肩甲骨にかけて、という泣き所(?)が実によくほぐれる感じじゃないの。
ちな、個人的にはこれで気になってた部位に全部アクセス出来た感じで、一切凝った所なくなった。
じゃあ、戦いがフォーマルな日常における健康法なのか、健康法を装った戦闘訓練なのか?
はっきり言えることは、どんな時代でも土地でもガチで戦う人なんて少数派だということ。
いやガチ勢でさえ、”戦いが日常”ではないだろ。 有事に備えるのが己の日常ってだけのことで。
あと、とくに年食ってから激しく動かしたりすると、炎症とか痛めたりする。
そういうところから、(万人向けに)ゆっくり動かすっていう処方箋になってったんじゃないかね。