ひまわり

ディクロニウス文明来たる!! ( ・ิω・ิ)ナンノコッチャ  (  ) (  ) シ~ン

イソ人を揺らす変手

大阪都妄想撃沈!( °Д°)クワッ 大阪のおまえらグッジョブ!m9(o_o)

まぁ少なくとも選挙は民主的に行われた証拠だから、そこだけでもちゃんと再評価せねばね。

大阪は大丈夫だな~ってちょっと安心したよ。

イソジンが切れたせいか、新規感染者東京とんきん抜いたデw

 

さて逆説的だが、もし空手の型が型にとらわれないものだったら素晴らしいと思うね。

つまり、シャドーボクシングの空手版なら。 さしずめシャドーはJAZZで空手の型はクラッシックか。

実戦というのは、相手よりも先に当てたいもんだから、動きがコンパクトつまり小さく早くなる。

もちろんそのメリットはあるのだが、ともすればそれは強迫観念となり”したい動き”ではなくなる。

話は変わるが、私は縁側将棋が好きであった。 なにがなんでも王を詰ますという将棋は楽しめない。

それが将棋のルールであり、プロがそれに徹するのは当たり前なのだが。

高校野球とか、アマチュアスポーツの世界でも似たような議論があるという。

要は、プロになるわけでもないのに、やたら勝負至上主義の風潮を”教育上”嘆く声だ。

それは人を枯らしてるだけではないのか? 元々面白いものをつまらなくしてるだけではないのか?

そういう意味で、なんかまったりと楽しんでるのを見ると微笑ましい。

それこそが、本当に大事な事を体現しているように感じられるのだ。

相手を想定しなければ、縦スラのような縦フックなんぞという発想も生汁。

実際、打撃の経験者でないものが実戦で、そんなカウンターを決めるという例はゴマンとある。

山本キッド徳郁が典型的だった。

実は自分もそんなタイプだったのだが、型にはまった反復練習で弱くなった部分もあると思う。

自分は初めての組手で先輩を拳法にはないフックでボコってしまったのだ。

これはフックがないというより、ストレートの方が遠くまで伸びるという理論的慣習に過ぎない。

とくに中段ではそれが顕著になる。 そして、それが競技になってしまうのだ。

それはストレートのもつ習性であり、絶対的手段ではないのだ。

状況的に有効なものなら、それが正解なのだ。 距離が詰まることなんて当たり前にある。

ちなみに、私ら顔面アリだが顔には一切の防具はしない。

OBの先輩には、馬鹿野郎一本取れるだろと怒られたが、今でもなぜ俺が怒られたのか納得していない。

これが闘いってもんだと思いますが、君達格闘ごっこ厨には何か不服だったかな?

まぁまだ初心者ということで先輩が手を抜いたこともあるんだろうが。。

そもそも先輩がクルっと後ろを向いてしまったのは、あまりにも動きが”想定外”で面食らったのだろう。

 

さて、沖縄空手にはフィンディ(変わり手)という言葉が残されているようで。

”手”とは神聖幾何学上の完璧な点であり、点と点を結ぶ完璧な線であると。

それを崩して点、すなわち手(の位置)を変えるのが変わり手。

すなわち、それが本来の空手であると。 身体ホロスコープによる運命、影響は変えられる。

つまり型とは”手”であり、変わり”手”(空手)ではないとな。<●>